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北里義之・澄んだ目のダンサー──山本晴歌「わたしは、わたしのほねになる」 公演日:2016年12月4日(日)


 大川原脩平とのユニット「ぞうとまめ」の公演が、共演者の急病で中止のやむなきにいたったため、スケジュールを穴埋めする形で、ダンサー山本晴歌にとって初のソロ公演『わたしは、わたしのほねになる』が実現することになった。ダンスの内容は山本がオリジナルに構想し、シーツや椅子など、どこにでもある簡単な小道具を使いながら、踊ることが同時に自分の身体の声に耳をすますことでもあるようなダンスが即興的に踊られた。観客席の椅子は、部屋の中央を広く開けて壁際に置かれ、いつもならホリゾントになる奥の壁の中央には、両脇を一列の椅子がはさむ形で縦長の姿見が立てかけられた。扉口から漏れ聞こえてくる喫茶室のにぎわいをよそに、開場時から部屋の中央に立ったダンサーは、床に広げられた白いシーツの前にたたずんでいた。背後には木製のアームチェアが置かれ、部屋の隅に置かれたアップライトピアノには赤い花束が載っていた。音楽に使われた大谷能生のエレクトロニクス演奏は、山本が参加して6年になるという大橋可也&ダンサーズの作品がもっている前衛的な雰囲気にダンスを近づけていた。

 大橋可也&ダンサーズの公演は何度か見る機会があり、つい先頃、長谷敏司の書き下ろしSF小説をもとにした『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(2016年10月/11月、木場アースプラス・ギャラリー)でも、「Layer 1」でヒューマノイドロボットと踊る山本を見たばかりである。アヴァンギャルドの美学を徹底しながら、舞踏の方法論をベースにクリエーションする大橋作品では、ダンスもふくめ、伝統的な身体観を脅かすような現代の身体状況があぶりだされてくるのだが、舞踏的な質感が強調されはしても、ダンサーの身体は均質化される傾向にあるところから、自分の身体以外に頼るもののないソロ公演は、身体の固有性もダンスを通じた発見の積み重ねの果てにあるという意味で重要だと思う。

 タイトルにあるように、(肉よりも)骨へのアプローチを試みる山本のダンスは、ときに足先をとんでもない方向に曲げたり、前腕で体重を支えながら軽業師のように倒立したりと、アクロバティックな負荷を身体にかけながら、新体操と舞踏の間にあるような、あるいは機械と物質の間にあるような独特な身体感覚を踊って、大きな魅力を放った。機械状エロスとでもいったらいいだろうか、この質感が「Layer 1」に求められたものだったのだろう。シーツにうつぶせになって片足を高くあげたり、シーツを巻きこみながら激しく横転したりと、くりかえしシーツに回帰してダンスにリズムを与えると同時に、アームチェアを使う場面では、顔を部分的におおう白い面をかぶり、椅子に乗ったり床にくずおれたりして、そこだけ演劇的なアプローチをみせた。クライマックスでは彼女のトレードマークである倒立が登場、転倒をくりかえし、何度となく身体を床にたたきつけたすえに立つまでが踊られた。特に印象的だったのはその目である。ダンサーにとっての顔は、ことさらに扱いがむずかしい要素で、顔に布を巻くなど、まるでそれがはじめからないかのようにして踊るダンサーもいるくらいだが、ダンスする山本晴歌の目はまっすぐで、無防備なほど澄んでおり、その目から放たれるエネルギーにさらされるのが心地よいほどだった。■

(2016年12月7日 記)
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