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北里義之・誰のものでもない感覚、誰のものでもない身体──喜多尾浩代「そこふく風」─番外編─ 公演日:2016年12月2日(金)


 過去におこなわれた「そこふく風」シリーズの夜公演は、美術家のみわはるき、チェリストの入間川正美、おなじくチェリストの森重靖宗との共演で、その場かぎりの即興セッションに終わらない感覚の共振をめざしておこなわれてきた。かたや、午前9時という異例の時間帯を選び、茶会記の窓や扉を開け放しておこなわれる「そこふく風〜特別編〜」では、空間を外へと開くことに重点が置かれ、自由に動きまわれるようにと人数制限された観客と踊り手は、路地にもさまよい出て、場所を吹きわたる「風」を感じるような時間を共有してきた。閑静な住宅街に囲まれた路地の奥で営業する茶会記は、古びた家具調度で室内装飾したり、玄関に「音の隠れ家」のプレートを掲げたりと、人や時間がふきだまっていくような場所作りをコンセプトにしていて、「そこふく風」の「特別編」は、そうした場所のありように正確に対応したプログラムだったといえるだろう。以上をふまえた今回の「番外編」は、空間を開放しない夜公演であり、演奏家との対話もない純粋なソロ公演だった。観客の反応を考えあわせると、この晩の公演は、私たちの身体に起こることにフォーカスするものだったように思われる。

 喜多尾浩代が「身体事(しんたいごと)」という呼び方であらわしている身体へのアプローチにあって、それはそもそものはじめからそうであったというべきだろうが、空間を開放したり、共演者を招いたりしないことで、今回それがより際立つことになった。ダンスをもっぱら踊り手の身体に起こる出来事として、「鑑賞」の対象にしようとするとわからなくなってしまうのだが、本公演を昨今頻繁におこなわれるようになった観客参加型のダンス公演とならべてみると理解しやすくなる。説明がややこしくならざるをえないのだが、喜多尾の身体事とは、身体の感覚をつねに複数形にしておこうとするものであり、あなたと私の間に吹きわたる風のようなもの、風のように所有できないもの、姿も形もないとらえがたいものでありながら、その存在が確実に感じられるものをなかだちにして身体が行為することといえる。端的にいうなら、踊っているのはダンサーであり観客なのだ。しかしながら、受け身の身体のまま観客席に座っている人々の感覚を、内側から励起することは至難の技であり、すべての観客参加型公演が取り組んでいるテーマといっていい。場読みのできないセンスのない観客もいれば、その逆に、場を読みすぎて役割を演技してしまう観客もいる。番外編に集まった観客は、後者の傾向が強かったといえるだろう。

 「そこふく風」の初回からそうだったように、今回もまた、半開きになった楽屋口からは、電球照明に薄ぼんやりと照らし出される控え室が見えていた。かたや、ステージの四隅を照らす明かりはいずれも部分照明で、観客の一方通行の視覚を分散させ、対象を曖昧にぼんやりとさせる。開演時間を過ぎてもしばらく動きはなく、しびれを切らした観客が首を伸ばして楽屋口の奥をうかがいはじめたあたりで、黒いドレスをまとった喜多尾が部屋のなかを横切る影が見え、扉口に姿をあらわした。身体はふたつの部屋の境界領域を越えてやってくる。音楽はない。上下動は使うものの、踊りを生み出すために喜多尾が壁や床に触れることはなく、いわば空気のなかに隙間をさがすようにして動きが生まれてくる。この晩は最前列に並ぶ観客への接近と遠ざかりがくりかえされただけでなく、客席のなかにはいりこんで動く場面も作られた。喜多尾が観客に触れることはないが、たまらずに席を後方に移動する観客がいた。おそらくそれは見るために必要な距離を確保するためだったろう。

 いったんステージに戻った喜多尾は、今度は喫茶室に通じる扉まで客席の通路を後ずさりしていくと、身体の左側を扉につけながらノブを握り、内側にゆっくりと扉を開いていった。隣の喫茶室から流れこんでくる音楽と人の声。扉に身を寄せてしばらくじっとしていた喜多尾はゆっくりとステージに戻り、そこでもすこし時間をとってから終わりの挨拶をした。扉を開けたことを「解散」の合図と受け取った最前列の観客が、挨拶を待たずに手荷物を抱えて席を去りつつ、ステージのなりゆきを見ていた。この晩起こったことは、環境の手助けがないなかで、踊り手からなにかがやってくることを感じつつも、それが誰にも所属しない感覚(そこふく風)を起こす方向には向かわず、踊り手の動きの解釈に横すべりしていくという出来事だったように思われる。触れることで自他の境界は簡単に解消するが、観客に触れるほど近くに接近はしても、けっしてそうすることのない喜多尾の身体事では、観客の視覚による謎解きの欲求を消すことはできないようだった。おそらく観客は、この両極を行ったり来たりすることになるのだろう。■

(2016年12月7日 記)
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