<< 「about "Hyslom" from Hikki 」喫茶茶会記店主筆 | main | 「大音量派であるということ」喫茶茶会記店主筆 >>
魚と美脚──川村美紀子『12星座にささぐ』第3回「うお座」 北里義之



 先月の「みずがめ座」公演で、もっとも印象深く、もしかするとこれがダンサーの本質かもしれないと思ったのは、「あるマックスから対極のマックスへと振り切れながら動き、反転をくりかえしていく」という、川村のダンスのヤヌス的な二面性だった。このふたつの極点を、試みに「M衝動」と「S衝動」と呼んだのは、それが彼女の身体のフィジカルな側面からきているように感じられたからなのだが、第3回の「うお座」を観てみると、この二極は、作品のなかでもう少し幅を持ったものとしてあらわれてくるようである。たとえていうなら、ギリシア神話や星座のような敬虔かつ神聖な領域に駆けのぼったかと思うと、愛欲にまみれた地上的な糞溜めのなかに宙天からまっさかさまに墜落するというような。相反する象徴性を高速度で往来するこの運動性は、かつてよく使われた言葉でいえば、「ヘルメス的」性格のものといえる。あるいはもっとシンプルに、川村のダンスや作品が持つ演劇的側面と考えるとわかりやすい。

 Wikipediaからの引用。「【ヘルメース】神々の伝令使、とりわけゼウスの使いであり、旅人、商人などの守護神である。能弁、境界、体育技能、発明、策略、夢と眠りの神、死出の旅路の案内者などとも言われ、多面的な性格を持つ神である。その聖鳥は朱鷺および雄鶏。幸運と富を司り、狡知に富み詐術に長けた計略の神、早足で駆ける者、牧畜、盗人、賭博、商人、交易、交通、道路、市場、競技、体育などの神であるとともに、雄弁と音楽の神であり、竪琴、笛、数、アルファベット、天文学、度量衡などを発明し、火の起こし方を発見した知恵者とされた。プロメーテウスと並んでギリシア神話のトリックスター的存在であり、文化英雄としての面を有する。」歌を歌い小説を書く、川村の才能の多面性は誰もが承知のところ。思うに、これこそ彼女の登場に人々が期待した当のものだったのではないだろうか。そして、この期待は、どこかで彼女の本質にも触れていたように思う。

 前回の手法を踏襲して、「うお座」にも、実在する40代の魚座の女と、50代の魚座の男のカップルが登場する。ムーディーなR&Bなどの音楽をともなって、深夜の阿佐ヶ谷で彼らにおこなったインタヴューが録音で流れる。ダンサーの前口上。「今宵お送りするのは、運命に閉じこめられた魚座の男女のヨタ話である。」現実に存在する男女の人間関係という、おそらくもっとも地上的なものにダンサー自身が対話相手としてコミットしながら、「うお座」は、これまでになく集中的にダンスが踊られた回となった。太腿が丸出しになる茶色のワンピースのうえから首回りを広くとったTシャツを重ね着して、白いソックスをはくというセクシーな衣装に身を包み、背もたれのあるユーロピアンな木の椅子を使って踊るのというのが前半のダンスの基調となり、椅子のうえでエビ反りになると、下半身を丸出しにして最初に片足ずつを、次にそろえた両足をあげるなど、セクシーさをアピールするダンスが展開していった。

 かたや、公演の後半では、椅子を台座がわりにして床にぺったりと腰をおろし、ゴムバンドに何本もの毛糸を結びつけていくという工作作業がはじまった。結び終わると、ホリゾントにあたる縦格子の壁のうえに貼つけてあったニボシの袋を、思い切ったジャンプでむしり取り、そのうちの何本かをムシャムシャ齧りながら、毛糸の先に魚をくくりつけていった。できあがったニボシの冠をかぶったところは、荊冠をかぶせられ、ゴルゴダの丘へと引かれていくニボシの聖者のようだった。立ちあがりしな、椅子のうえに散らばったニボシに喰らいつく。上着を押し下げて脱ぎ、ワンピース姿になると、さらに袋のニボシを上向いた口に流しこむようにして頬張るダンサー。束になって口から突き出るニボシ。いくつかは床にボロボロとこぼれ落ち、生臭い魚のにおいがたちこめる。背後の格子壁に後頭部をつけた川村は、ずるずると力なく床にすわりこむ。ときおり楽器の音をはさみながら流れつづける深夜の会話。



 ダンスであることを大幅に逸脱し、予測のつかない、どう受け取っていいのかさえわからない強烈な身体の場面が連続していった「うお座」公演。頭をふり、肩をふりして、冠からさがったニボシをフラフラとさせた川村は、大きな動きで冠を一気にふり落とすと、下手コーナーに椅子を片づけ、ふたたび踊りはじめた。「うお座」公演では、高速度のアニメーションの動きは封じられたが、そのかわり、公演の前半では、高い棚からなにかを取るようなしぐさをしたり、両手に握ったものを空中に置いていく身ぶりをしたりというように、パントマイム的な動きが前面に出ていた。そもそも身体の各部をセパレートして訓練していくアニメーションには、伝統的にはいまでも文学的に踊られるパントマイムを、解像度の高い筋肉や骨の動きとともに、解剖学的なものに進化/深化させた意味合いがあり、一般的にアニメーションのダンサーは精度の高いパントマイムを踊ることができる。同様にして、文学的な「人形ぶり」は、解剖学的な「ロボットダンス」として進化/深化をとげている。川村のこのダンスも、アニメーションの可能性のひとつと評価できるのではないだろうか。不安定な姿勢を連続していった最後の場面は、魚座の男女とのインタヴュー終了とともにダンサーが床に仰向きに寝転び、そのまま終幕となった。ダンサーの太腿ばかりが、暗闇に白く浮き出た生きもののように生々しく印象づけられた「うお座」公演だったが、一見するとエロチシズムの表現のような場面も、ニボシで冠を作り食い散らかす不可解な場面も、ひとつの宗教的な隠喩を帯びていたように思われる。このあたりが聖俗の境を自由に往来するヘルメス川村の真骨頂といえるだろう。

 「うお座」のテーマを「魚」でイメージ連鎖していった今回の『12星座にささぐ』は、連鎖の一本を、ともに魚座の男女のヨタ話=実録秘話として地上的なものにつなぎとめるとともに、連鎖のもう一本を、中世のフランドル地方で活躍した画家ブリューゲルの寓意画『大きな魚は小さな魚を食う』(1557年、版画)に登場する人間の脚が生えた魚につなげたように思われる。奇怪なイメージにあふれたこのブリューゲルの代表作は、腹を割かれた大魚から流れ出ている中小魚に、「強い権力を持ったものは、弱いものを支配し、破壊することができる」とか、「権力を振り回しすぎると最後には立場が逆転する」という意味に解釈されているようだ。川村が魚とダンスをつなぐために選んだのは、おそらくこの寓意画の左上に描かれている怪物的造形──別の魚をくわえた魚が、白いソックスをはいた人間の脚で歩く姿──に間違いないだろう。超ミニのワンピースで両脚をむき出しにして踊ったことも、頭にニボシを吊り下げた冠をかぶったことも、口からはみ出すくらいにニボシの束をくわえたことも、つながらないものがつながるという生きものの怪物性を、底に秘めた身体的テーマとしてステージに登場させる道具立てだったように思われる。こんなふうに考えると、椅子のうえでエビ反りになるストリップショーふうの場面も、腹を裂かれて横たわる巨大な生きものの、始末に負えない存在のありように見えてくるから不思議である。太腿のエロチシズムに、魚の脚という怪物的なものを重ねてダブルミーニングを生み出すのが川村流といえるだろう。彼女の作品には、こうした謎が散りばめられている。



(観劇日:2018年3月29日)
コメント
コメントする