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2019/3/31 Mariko hikki  私の話。 「お帰りなさい、さようなら」 一般公開  2016/02/08 from google++


自分の超越個人的なBLOGで 他の方のBLOG記事をお借りして載せるなんてことは想像できなかったことですが、借用させて頂き、少し書き連ねたく思います。
長い前説になりますので、軽く読み飛ばしてもらえれば。

私は小学校高学年前後より、ラジオが好きで 週の半分くらいは深夜2時3時くらいまでラジオを流し、物思いに更けたり、秘密裏に一人夜の町を歩いたり、雑誌を見たり本を読んだり、絵を描いたり、好きな子に想いをはせたりし、夢をみるのが好きな女の子だった。
幼い頃から体格がよく、小学校卒業くらいまではクラスで1番に背が高いような具合で、 同級生の中でもマセていたほうだし、少し変わってるお母さん(お姉ちゃん?)みたいな人だったと思う。
中学生ほどになると、休みの日なんかに一人電車で近場の街・繁華街にも度々出向くようになっていた。
私が初めてお金を出したCDは小室哲也さんプロジェクトのglobeのCan't Stop Fallin' in Loveだった。小4くらいでしょうか。
歳の近いほうの兄の友人のお家が カラオケ店を営んでいて、その人から中古で500円くらいだったか、買ったのでした。
当時の私の音楽は大半がTKミュージックでできていた気がします。安室ちゃんは女子たちの中では神だったし。
けど兄の部屋で見付けるCDなんかはメロコアバンドとかJ-popロックバンド、他にはアメリカ・日本の(ノットポップな)HipHopのCDなんかがあって、なんでも知っておきたい私はそれらも一応何度も聴くのです。
いいな。と思えるようになるまで。
話しは前後しますが、ラジオを自分だけの時間の最中にBGMとして流し続けている時に、聴いたこともない「なんていい曲!」に巡り合うと、即座に耳を澄まし、メモをとるのですが、なんせまだ英単語もあまり知らないし、MCが言った言葉のどっちが曲名でどっちが人名かもあやふや。その音楽のジャンルなんてものも まっさら解らないのです。が、メモはとる。その時の感動を、いつかどんなものっだったのか判るようになるために。
そんなメモ書きがたくさんの夢ノートも実家にまだとってあります。
私は洋服が好きでした。
一人街を散策するのもほとんど洋服のため。小3.4年を過ごした学校で、2つ年上の先輩と二人で新宿の文化服装の卒展なんかにも出向き、ショーを体感した時には感動したな。原宿での買い物も。いい思い出です。
そんなちょっとませていた女の子は、カッコ良さそうなものを見付けるのが好きで、街に行き、お店に行っては、クールなチラシを何枚も持って帰っていました。
そのチラシから、音楽を知りました。
格好いいチラシのほとんどは音楽関係のフライヤーで、LIVEをするミュージシャンの名前、DJの名前、コンサートをするところの場所の名称など。
音楽はラジオからのタイミングのいい時にかかる選曲での高揚で、物足りていて(というより、その先に進む手段を知らなかった)自らCDショップでメモをとった音楽を探したりということはあまり無く、(というより、無知な自分が膨大な量のCDの羅列に耐えられない)チラシのデザインから、こんなアーバンな音楽なんだろう。とか、あ!こないだのラジオで紹介していた人だ!とか、そんな感じでの音楽との関係性でした。
幼い頃から深夜のラジオを聴いていたせいか、音楽は幅があり、深すぎて追及しきれない!と決めていたところがあり、【自分自身の好きな音楽】というものを探求する気持ち、音楽の歴史、系譜。それらに自らが対峙することはありませんでした。
好きな番組の好きなMCがかけてくれる、好い曲が好き。そこにずっと留まっていました。
時は経ち、高校生にもなってくると、ポコポコと同級生のなかにも音楽好きっぽい人が居たり、当時仲良くしていた専門学生のお兄ちゃんたちや、先輩、年上の彼など、【音楽というものに詳しい人】が友達や恋人の輪の中に現れ始めました。
なかでも未だに影響が強く表れているのは、17の時に付き合っていた10こ年上の彼。
その彼は近くの街でレコードと洋服とスケーターカルチャー系のお店を同級生4人で営んでいて、その彼自身はおいといてw、そのお店はとても恰好いいものでした。
彼の家にはリビングが埋まるほどのレコードが雑然と並び置かれていて、量がありすぎるので、私は一切手出し出来ませんでしたが、彼がお気に入りのレコードを聴かせてくれる時、しっかり聴いて、私なりの感想を伝える時の時間が好きでした。音楽に無知な少女の言葉をちゃんと聞き入れてもらっていました。
未だにそうですが、どなたかの物であるレコードだったり、楽器だったりという品物に、私は手を触れることが出来ません。
その物自体に対しての扱いの所作も存じていませんし、若い時からの先入観的なものなのか、自分が音を鳴らすものではない。と思っているとこがあります。
けれど、さきほどの彼の家にあった、古いトランペットは好きでした。なのでトランペットは吹けるようになりたいと今も思っています。
その彼はレコードで、ジャズやファンク・ソウル、オールドヒップホップなど、よくかけていました。お酒に酔うと、ターンテーブルをDJのようにPLAYしたりもしましたが、当時の私が聴いていてもまだまだなPLAYでした。
彼が作ってくれた、26曲、手書きジャケ&クレジット入りの”The Sound of SEARCHING”というCD-Rは今もよく聴きます。
さて、さらに時は経ち19〜21.22歳くらいの頃は音楽や藝術とはかけ離れた生活でした。
思春期から ややわかりづらくやさぐれていた私は、高校卒業後、社会という恐ろしいものの中で、独り生きる事と、自分の生き方の模索、夢を持つことによる生への目的の錯綜。孤独が私を満たしていました。
その後に、東京から地元に落ち着き、だんだんと自分を赦し、ポジティブな諦めと甘えを受け入れていった。
そして、地元では昔馴染みの人がいたり、新しく知り合う世界観の人たちとの交流のなかで、私はまた、音楽や藝術や、人々の営みの素晴らしさに胸が揺さぶられる感覚を 新鮮な気持ちで向き合えるようになっていました。
その頃あたりからでしょうか、自分の近しい仲間や友人の輪のなかに、アーティスト(表現者)として動いている方や関わる人々が居始めたのは。
学生の頃から仲のいい友人が、藝術大学へ進み、卒業後から、アーティストとして生きる。という選択をとった事や、自分の働くカフェに、憧れの音楽家が演奏を行ってくれる。という場に関われた事。好きになった人が音楽を奏でていくべき人であった事。など、一度も二度も、三度だって諦めてきた、藝術や表現ということが、私が好きな人たちを介して動きだしているように感じました。

長々と自分史のようにぺらぺらと書きましたが、
私自身が表現と向き合うということは、その人自身の人間性に出会えるから。
音楽でも藝術でも文筆でも、働くことも生活を送ることも、ただその人がその人として、何かを感じている。ということが表現体になっています。
だから人と関ること。人を想うこと。サキを感じること。
このことが 今、私に出来る表現になっています。

そして、紹介が遅くなりましたが、BLOGをお借りしました大沢伸一さんという方。
恥ずかしながら、あまりよく知らず、氏のHPを拝読していましたらば、なんとフラットに物事を捉え、理解とその先の危惧を提示される方なんだろう。と感銘を受けたのです。
これは超個人的感覚での作用なので、どなたにも当てはまるものではないと思いますが、日本や海外で活躍している音楽家(表現者)の方のとてもリアルで、虚のないモノの捉え方に私は感動したのです。
下記のリンクはBLOGの記事の中の一つですが、全体を通して見られるといいと思います。

そして蛇足ですが、19歳くらいの頃の私のおなじみの夢ノートに、大沢氏のアルバム紹介の、雑誌の小さな切り抜きがテープで張り付けてありました。
またここで出会えた今を嬉しく思います。



様々な出逢いと皆様の生き様に、心よりの敬意とありがとうの想いを伝えたい。そんな今に感謝致します。
長い駄文をもしお読み下さったのでしたら、ぜひ、御自身も郷愁の想いにはせ耽ってみて下さるといいな、と思います。

東京の町の一室より。
田中万里子
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